グローバルであり、グローカルな映画の登場

司会:この「夏をゆく人々」という映画には色んな読み解き方があると思うのですが、このHP企画では様ざまな方に映画について語って頂こうと思い、この対談を企画しました。先ずは映画のご感想について、それぞれお聞かせ下さい。

小沼:感想は一言ではいいがたい(笑)。ストーリーが全体を引っ張るのではなくて、生活の一コマを鑑賞するような映画ですからね。たぶん、このロケーションが一つのテーマだと思うんです。この場所や、この家が全然変わらずそこにあって、そこへ人が来たり、居なくなったりする。その意味で、この土地が大きいと思うのです。
登場人物たちは、不思議な生活をしているでしょう?外で寝たりして近代的な生活ではない。どこか神話的というか、別世界で。しかもこの人たちは、言葉が変ですよね?イタリア語を喋ってはいるけど、母親はフランス語を喋ったり、父親はドイツ語を喋り、やって来たドイツ人の少年は喋らない。ローカルな土地のなかに、多言的なものが入っている、不思議な空間なんですよ。島に行くシーンには、エトルリア的な面もあります。家族の成り立ちも面白い。この家族は女系ですよね。父親は夫権的なものを握ってはいるけれども、なんとなく近親相姦的なものを感じるし、そういう点でも神話的な感じがする。これまで色んなイタリア映画を観てきたけど、イタリア映画って一筋縄ではないな、と改めて思いました。イタリア映画には色んな要素があって、イタリアが一つじゃないということ、そして今でも、ローカルのなかに複数のものが入っていること、まさしく、ヘテロトピア的な何かが体現されている。
つい最近、小野正嗣の小説『残された者たち』を読んだのだけれど、九州が舞台で、みんなの血が繋がっていない家族のお話で、それがローカルな話なのだけれどもグローバルであり、またグローカルでもある。そういう世界を作っている。この映画も、まさにそうだと思う。人によっては、ストーリーがないから、観ていて退屈してしまうかもしれないけど、でも細部が面白いでしょう?ストーリーとは別に、それを食い破るような面白さがあると思うんですね。そういうところを観ていけるかどうか。

小島:僕は、最初に観たとき、よく分からなかったんです…。何度か観ていくうちに、家族それぞれが秘めている秘密があるなということが見えてくる。映画の前半は、みんな、それを互いに打ち明けようとするんだけど、寸止めしてしまう。それが、けっこう繰り返されていますよね。僕も少年時代にささやかな秘密を持っていたことを思い出しました。秘密と言ってもたいしたものではなくて、可愛らしい秘密だったのですが、それでも子どもにとっては大事な秘密で。そのことを思い出した時、一気にこの映画が自分のことのように見えてきたんです。僕の地元も田舎で、周りに工場が沢山あったりしたので、どことなくこの舞台の場所と少し似てたりして。この映画を、少女の成長ストーリーのつもりで観てたはずなのに、どんどん自分と姿が重なって、忘れてたはずの僕の恥ずかしい思い出を見せられている気になりました。途中で少女同士の、不思議な儀式があるじゃないですか。光を飲んだり、一緒に踊ったり。あとは、お父さんにみつかりそうになりながら、蜂蜜を片付けるシーンとか。僕もなんだか似たようなことをやっていたことを思い出したんです。

司会:先ほど小沼さんより土地の重要さというお話が出ました。この作品はエトルリア文化が背景にあるのですが、観た人によっては、エトルリアのことは描いてはいないのでは?という意見もありました。あの土地独特の不思議さというのがあると思うのですね。

小沼:エトルリアであろうと、どこであろうと良いと思うのです。いわゆる、ローマやミラノやヴェネツィアといった、都市文明とは全然関係のないところであれば。今年の春に、イタリアの「風の丘」(カルミネ・アバーテ著、新潮社)という小説が翻訳されました。イタリアの田舎を舞台にした、秘密を持っている兄弟の話で、3~4世代にわたる話なのだけれど、そこの人たちはイタリアの中では特殊な民族らしくて。そういう人たちが、岸辺というか、海に近いところに、中央から集まっていく。ヨーロッパだと、ケルトやブルターニュもそうで、みんな端っこへ寄っていく。この映画の辺りも端っこなのかな? そういう意味では、“マージナル”(編集部注:「境界」「辺境」の意)という言葉が合うところですよね。

五感の映画、そして音楽

司会:そこが魅力の一つでもあると思います。辺境とは、ある土地と別の土地が重なるイメージですが、日本にもきっとあるのでしょうね。またこの映画は「五感」の映画という言い方をされる方もいます。

小沼:海の水の感触とハチミツのどろっとした感触のコントラストとかね。例えば、雨が降るシーンがあって、みんなで一斉にミツバチの箱をおさえに行くでしょう。あの雨の感じとか。そういう、液体の感触の表現が面白かった。

小島:音もすごく良かった。いまの雨の音もそうですし。風の音とか鳥の音とか、全部、生々しいというか。

司会:小島さんの音楽のように?

小島:そうです。さっきの土地の話にも近いのですが、僕は結構フィールドレコーディングをするんですが、外で音を録音するんですね。その場合、自分もそこで歌ってはいるけれども、録っている主役はむしろ、その土地の音なので、自分が歌っている周りにも音が広がっていることを、出来るだけ意識して録っているのです。それに近い感じがました。この映画も、映像で切り取っている場所以外に、世界が広がっている感じがしましたね。

小沼:そうそう。周りの音って色いろある。ただ、それだけを録っても、人はあまり聞いてくれない。歌を歌ったり、喋ったりすることで、逆にそれがあるからこそ、周りの音が聞こえてくることがある。この映画も、この人たちがいるから、その周りが見えるというのがありますよね。

司会:なるほど。先ほど小沼さんが仰ったように、この家族は多言語家族である。それとは対極的な存在である地元の家族がいます。コンテストに出る農家の一家などですね。あの家族のおばあちゃん世代の歌が独特で、少しグルジアのポリフォニー音楽のようで、すごく面白いですよね。

小沼:あの歌が良いんですよね。イタリアのサルディーニャに、男性の声の深いコーラスがあるんです。いまグルジアと言ったけど、それを思い出しました。この映画は、普通の音楽を全然使わないじゃない?せいぜい車の中で鳴る曲とか、子どもが歌っている歌とか。あとはテレビ番組の音楽だけで。外から被せる音楽がなくて、それがまた良いですね。映画は、重なっている余計な音楽が多いから。

司会:そういう意味では、確かに、音によって観客を誘導する演出はないですね。

小島:流れている音楽は、姉妹が大好きなポップスくらい…。

司会:あれは、実は90年代のヒット曲らしいです。イタリアでも90年代はバブルの時代で、それを思い出させるという話を伺いました。たかだか20年前の近過去なのだけれど、もの凄く遠い感じがする曲ですよね。日本だと、「 SPEED 」の曲に近いかな、と(笑)。

小沼:ああ、そうか。それは確かに近くて古い(笑)。

小島:まだクラシックにもなっていない、古さ。

司会:そうなんです。21世紀になったからではなく、あまりにも近すぎるからこその古さ。恥ずかしい古さだと。

小島:では、姉妹があの曲に合わせて踊っていたというのは、本当にイタリア全土でやっていたのかもしれない。

司会:そのようです。

小沼:日本だと、ピンクレディーみたいな? でもピンクレディーは古くなっていないからな。

司会:少し前のヒット曲を古く感じるというのは、どういうことなんですかね。でも、そうした曲を持ってくるのが、この映画の面白さですよね。

魅力ある登場人物たち

司会:登場人物についてお話ください。

小島:僕は妹が好きですね。マリネッラ。

小沼:ちょっと太っている(笑)。

司会:ジェルソミーナと対比がありますよね。真面目な長女と、要領のいい、おませな妹という対比がうまい。

小沼:この家族って凄いですよね。四人姉妹で、周りからは「男の子はどうしたの」とかセクハラみたいなことを言われる。その女の子ばっかり、というのが面白い。下の2人の女の子たちは、行動パターンが全然よめなくて、映ってはいるんだけど、演技はほとんどしていなくて、そのまんまの自然児のよう。さらに子供に加えて、不思議なラクダも登場する。ここ1~2カ月で、ラクダが出ている映画を3本観たので、なんで最近はラクダなのだろうと(笑)。それも全く別の国の映画で、一つが「夏をゆく人々」で、一つはオーストラリアの『奇跡の二〇〇〇マイル』で、あとは中国の端っこが舞台の「僕たちの家に帰ろう」という映画。

小島:その不思議なラクダを、父はジェルソミーナがずっと欲しがっていたからといって買ってきた。でもジェルソミーナは、もう全然ほしくない。

小沼:子どもが変わることを分かってないんだよね。まあ父親って、ああいうものなのかもしれないけど。

司会:お父さんとしては、気持ちのうえでは末っ子たちと変わらない目で長女をみている。

小沼:でも、下の双子たちはまだ異物でしょう?動物ですよね?言葉も通じないし(笑)。

司会:小島さんは一人っ子ですよね。こういう姉妹がたくさんいる感じは、どう思いますか?

小島:僕は一人っ子なので、兄妹には憧れがあるんです。この前、池袋のサンシャインに行ったのですが、水族館から出てくる時、ちょうど、この映画の子どもたちと同じ歳くらいの3姉妹が目の前を歩いていたんです。その子たちをみながら、ああこれは「夏をゆく人々」だなと思って。一番小さい子は走りまくっていて、マリネッラくらいの歳の次女はスキップをやたらとしている。スキップってもしかしたら、歩くという社会的行動を覚え始めて、でも走りたい気持ちの、ちょうど狭間ぐらいなの行為なのかなと、ふと思ったんです。確かにこのくらいの歳の時に、僕もスキップをしていたなと。そして、ジェルソミーナの歳になると、もうスキップはしないんだなと、その3姉妹をみて思いました。ジェルソミーナはスキップもしなくなって、大人の道をいこうとしているのかもと思った時に、その3人が、自分の成長過程をみているようで面白かったです。

司会:マリネッラが好きな理由はなんですか?

小島:やはり、スキップの世代だから(笑)。

司会:私もマリネッラが好きです。ジェルソミーナに思い入れをもって映画を観ると、彼女は辛いなとか、大変だなとか思ってしまうけれど、マリネッラはお気楽だなと。仕事もサボるあたりも共感がもてる(笑)。でもマリネッラはお気楽なんだけれど、どこかお姉さんへの嫉妬もありますよね。
この家族は、居候のココも含めて、本当に不思議です。先ほど小野さんの小説の話もありましたが、家族のありようが、日本でもこれから変わっていくのかな、といつも思っているのですが。

小沼:この家族は不思議ですよね。だって何人(なにじん)だか、分からないでしょう。

司会:そうですね。お母さんはイタリア人で。

小島:お父さんはドイツ人ですか?

司会:ベルギーあたりから来たことになっているようですが、ロルヴァケル監督もはっきりとは言っていないのですね。

小沼:分からないところが、良いんでしょうね。

<寛容さ>と<不寛容さ>の中で

小沼:例えば、こういう人たちが自分のそばに、知り合いとして住んでいるとして。あの家族、変だよね、と思うでしょう?イタリア語を喋っているけど、時にはドイツ語を喋るし。そうした時どうするかというと、「あんたたち、何人なの?」と聞きにいく訳でしょう?そういう風に、実際に会った時に聞くのがコミュニケーションなので。でも映画だと、作品という別世界だから聞けない。でもむしろ、そうして距離をおいたところに我われがいるからこそ、こういうことを感じるし、また、そういう思考がまわるのでしょうね。この映画は、そうした人たちが存在していることを認めることに、意味があるのではないのかな。

司会:自分たちに無いものを受け入れる。

小沼:そう。この映画では、ドイツ人の男の子を受け入れるという、まさにそれこそ、他者の問題ですよね?その子が過去に悪いことをしてきた子であっても、でも、口笛だけは上手い。そこを受け入れる。

司会:何故マルティンは、言葉を喋らないのでしょう?

小沼:でも、ちゃんとジェルソミーナとは、不思議な交感関係がある。口笛をふいている時に、口からハチを出すという交感が(笑)。

司会:マルティンは言葉を喋らないけれど、鳥のさえずりをする。彼は、声が出せない訳ではない。あれは、ミュージシャンの小島さんからみると、どう見えるんでしょうか?

小島:どうですかね。僕は…。

小沼:あんな風だった(笑)。

小島:いや、違いますが(笑)。僕の地元は、静岡県の浜松市なんですけど、工場地帯だったので、海外からの出稼ぎ労働者が多くて。同じクラスに、ブラジルから来た男の子や、ペルーから来た女の子や、色んな子がいたんですよ。日本に来たばかりの子だと、日本語が喋れないから、みんなマルティンみたいな感じで。でもサッカーをやるとめちゃくちゃ巧かったりして。喋らなくても、子ども同士では、良い奴だなとか分かるんですね。だからマルティンという存在は、違和感なく入ってきましたね。この映画で、みんなで海に遊びに行くとき、マルティンは凄くはしゃぐじゃないですか?その記憶で、ジェルソミーナはあの島に探しに行ったのだと思いますが、たぶん子ども同士で、お互いに理解しあっているところがあるのかなと思って。

小沼:行方不明になったマルティンが「あそこにいるのでは?」とジェルソミーナが察して1人で海を渡っていくでしょう?異界のような、離れている場所へ。ラクダも余所からくるし、マルティンもドイツから来る。たぶん文化人類学関係の人がこの映画を観ると、そういうものが折り重なっているように思うでしょうね。一種の、神話的な世界が構築されている。マルティンみたいなドイツ語圏と、ラクダみたいなアラブ的な砂漠のほうの異文化が入って来るということ、そして現在と、神話的な世界があるという、両方が重層的な構図をとっている。まあ、どんなところに行っても異文化はあるのだけれど。この人たち自体も、どこから来たのか分からないですからね…。

司会:以前に岩波ホールで上映した「海と大陸」のように、アフリカから現実に難民の人々が入ってくるイタリア映画がありました。でもこの映画では、イタリアの人々が自ら内包している異文化を現わしているのかもしれないですね。

小沼:「海と大陸」と「夏をゆく人々」には、共通しているものがあると思うけれど。あと、数年前にアキ・カウリスマキ監督の「ル・アーヴルの靴みがき」という映画がありましたが、あれも海と関わっていて、余所から人が来るという共通性がありますよね。

司会:でも、実はこの映画のあの水辺は、湖なんです。ボルセーナ湖という湖だそうです。かなり大きな湖で、その中にあの島があるらしいです。
先ほど小沼さんが仰っていた他者との問題とか、小島さんの転校生のお話とか、寛容であることが前提で、人々が緩やかに繋がるべきだと思うのですが、今は、どんどん寛容さがなくなってきていて、他者を排除するようになってきた。小島さんが小学校の頃は、ブラジルから来た子はサッカーが出来るから、言葉が喋れなくても素晴らしいという感じだったのが、今だと、「日本語が出来ないのかよ」といった不寛容な時代になっている。そうした視点でこの映画を観ると、また別の面白さがあると思います。

小沼:いや、今の日本列島の文脈から考えると、そうやって読み解くのは普通というか、正しい見方なのではないかな? でも、たぶんね、ヨーロッパ人は、そうしたことをいつも考えているのだと思う。ヨーロッパにおいて移民の問題って、すごく大きいわけでしょう?言葉が通じないのは普通だし。歩いていくと、言葉の通じないところへ行ってしまう訳だし。

夏という季節の中で。少女の変化について

小沼:あと、この映画の設定が夏であることが良いですね。夏の、ある種の解放的なところが、身体的にも、感覚的にも重要で、例えば水に入るシーンとかに大きく影響していると思う。これが秋とか冬だと、こういうふうに湖に関わっていけない。

司会:秋が舞台だと、マルティンとの関係も変わってしまっていたかもしれない。

小島:そうか。せつなさが出てしまうかもしれないですね。

司会:たぶん養蜂的にも。養蜂業の人たちは基本的に移動して養蜂をするので、あの人たちも、あの土地にいることが前提ではない人たちで、そういう意味での不安定さがありますね。

小島:最後に、みんな居なくなってしまいますものね。

司会:あの最後の家のシーンも不思議ですね。一説には、あの家がみていた夢だったのではないか、という見方があります。

小沼:ミツバチって、日本列島の文化ではないじゃない。やはりヨーロッパの文化で、映画の資料にも、「ミツバチのささやき」が持ち出されてといるけれども、アンゲロプロス監督の映画にもありましたよね。マストロヤンニが出ている作品だったっけ。そういう映画が、他にも何本もあって。ミツバチを飼うということが、昔から大事なこととしてあったのでしょうね。それは、私たちには遠いことなのだけれど、そういうことを通して、その人たちのことが分かる。

司会:それを、この家族がやっていることが面白いですよね。伝統的なことをやっているけれど、彼らは伝統的な家族ではないという。

小沼:そうだよね。この人たちは、昔からやっていることをやっているのか、もしくはわざとヒッピーみたいに、こういうところに回帰しようとしてやっているのか、よく分からない。でもそのことを、この世代の人たちがやっているのが面白い。この親父は髭を生やして、汚い恰好をしているから、歳とっているように見えるけれど、実はもっと若い世代かもしれない。

司会:ロルヴァケル監督は、この映画には、ヨーロッパとか世界中で1960年代に生じた学生運動が背景にあって、1968年以降の話、と言っています。設定をはっきりさせてはいないけれど、それ以降のお話ということだけは明言しています。何らかの政治的挫折があって、自分の信念を持って家族を理想郷に連れてきている。ここにずっといる訳ではなくて、流れ着いてきて、また居なくなる、ということを監督は述べています。

小島:この映画はジェルソミーナの、ひと夏の話じゃないですか。でも、ひと夏でこんなに少女は変わるものなんですか?

小沼:ジェルソミーナは10代前半の設定だと思うけど、意外に歳が行ったり来たりする印象がある。シーンによっては大人っぽいし、子どもっぽくみえる時もある。そういう意味では、夏を思わないでもないですね。だから他の男の人が、父親に言う訳でしょう。彼女が「女になっていく」というようなことを。そういう意味では、このタイトルはぴったりだと思いました。日本の歌謡曲でもあるじゃない?でも、精神年齢が低い男の子には実感ないよね。

司会:ひと夏ではないにしても、13~15歳くらいの間の短い期間での変化は何かあるとは思います。何かは分からないけど。ある種の壁を越えて、色んなものを見聞きすることで、あるとき女性になる。親との関係や友達との関係、あとは、体の変化が、あるとき突然起こってくる瞬間が女の子には必ずありますよね。やはり、ロルヴァケル監督には、女性ならではの感性がありますよね。私は「夏を行く人々」を観ていて、長女と父親の関係が自分のことのように辛く甦ってきました。二度と、この時代を思い出したくないと思わせるような、いい意味で生々しい映画です。

小沼:そういう意味では、きっと、若い女の子に観てもらうと良いんでしょうね。20代とか30代の方々に観てもらうとね。